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高市のゴト師                                                                                            

                             坂入尚文 

 北海道余市、ここには小樽や積丹半島などに縄張りを持つ親分が居て、この親分はまだ若い頃の私の兄貴分となっていた。長い旅を続けていると兄弟分も増える。八人まで増えた兄弟分や兄貴はすでに死に絶え、中には自殺や行方不明も居る。晩年の私はその後まったくの一人旅を続け、その私も疫病コロナの前年に終わっている。気づけばいつの間にか老境に入っていた。

 この稿を書く私の膝には黒猫のクロチャンが丸くなり、見世物学会顧問を引き受けてくださった種村季弘さんに猫撫怪人という題名の一文があったことを思い浮かべる。

 余市の兄貴、高橋守正の父親はどこから北海道へ流れ着いたのかを兄貴は知らない。父親は天秤棒に木樽を下げ羅臼や積丹半島にまで足を伸ばし金魚を売り生計を立てる。兄貴は高校を中途退学した後に金魚売りを引き継ぎ、屋号をデメ金とした。時には鱗の剝がれ落ちた金魚をさらに歯ブラシでこすり落とし、新種として漁師などに売り付けたこともある。デメ金の名は余市や小樽までに知れ渡り、余市では郵便物などは余市郡余市町デメ金と指定すれば届くこともある。兄貴の没後、その姐さんは高市に茶屋やフライドポテトなどの店を並べ商売を続けている。その上現在でも、正月前になると鮭などを送り届けてくれ、コロナ流行の間も細々とした高市の商売を続けた。

 余市の高市は六月にある。いつの頃からか私は余市の前に富良野の高市へ行き、余市に着くと余市川に面した漁港にトラックを止め一人度を続ける。港では富良野の雨で打たれた天幕どころか濡れ鼠になった服までも干し居眠りしながら時を過ごす。すると兄貴から電話が入り「サカー今どこに居る、肉か魚かどっちがいいんだ、飲みにいくから迎えに来い」と、長年に渡る私の到着日を覚えている。兄貴の家は町外れにあった。

 夕方になって兄貴の家に行くと先ずは犬が吠える。犬は私のトラック、あるいは私の臭いを覚えていて、鎖を引きちぎる勢いで吠え、二本足で立ちあがり、近付くと私の足に抱き付く。

家はところどころ剥げたモルタル塗りで、一階は全て高市の用品で埋まり兄貴は二階に住む。その上二階に土足で上がる習慣は、厳しい高市の疲れ、深夜早朝帰宅するうちに付いてしまっていた。

 二階に上ると兄貴はテーブルの上でいつも飾り熊手の部品など作っている。それもウイスキーかワインを飲みながらの仕事で「お疲れ様です」と声を掛ければ「来たか」と言ってこちらを見ることも無い。それより一分一秒でも手を止めたくないのだ。

 かって兄貴が小樽神農会の会長になった頃「一分一秒でも長く俺はこの縄張りを守る」と言ったことがある。その頃小樽は別の組織の圧力を強く受けており、熊手作りはその頃から始まっていた。その事を知る私は軽く挨拶してこの季節に未だ石油ストーブを着けたままの敷物の上に大の字になって寝ころんだ。兄貴は時折りウイスキーラッパ飲みしながら仕事を続ける。

 余市には銭湯が三軒、温泉も三軒その頃は、あった。明日から高市の始まる日、私はドブ川に面した茶色の湯の銭湯に入り近くの広場にトラックを止めて居眠りをしている。

 ドブ川は清流の余市川と合流し、ちょうどそのあたりにはかってアイヌ部落があって(注)、余市には又、余市川の対岸にも別のアイヌ部落があったと聞いている。そのことを教えてくれた小波達郎は子供の頃に熊祭りを見ており、退官した軍医、陸軍中佐の私生児でもある。

 達郎は高市になると必ず私の前に現れて、かってサックスを吹いたバンドマン時代の派手なシャツを着て私の前に立つ。バンドマンの前にはテキヤをやっていて、高市になればいつも人だかりになる私の事を、自分の方が年上にも拘らず好きだったのかも知れない。達郎が子供の頃には余市に女郎屋もあったと聞く。

 いつ頃のことだったか、高市の三寸に立つと達郎は姿を見せない。そのことが気になって関係者に聞くと達郎は病院で他界していた。

 翌日に余市の高市の始る日、祭の土場には白い線と所場割りの番号が書かれている。この日私はトラックを高市の土場に面した買い物駐車場に止め居眠りをしていただろうか。ふと気づくとこれまで余市では聞いたことの無い笛太鼓の音がする。それもどうやら使い古しのカセットからの音らしく、長年来ているこの町では聞いた覚えは無い。高市の土場は国道から折れ、幾度も右左へ繋がり余市駅前まで続く。音は国道から鉄道へと突き当たる手前の、明日の高市ではスマートボールの店が並ぶあたりから聞こえ、人家はその先で途切れる。気になってトラックから降り、人家の無い道路の中央から眺めると、そこにはすでにカセットを切って、ちょうど被り物の獅子頭を外す男が居る。これまでに私は北海道で獅子舞を見たことが無かった。それと無く見ていると、まだ六月の北海道に男は顔と手が黒く日焼けしている。それは長い日々を流れた旅芸人の証しであるように思えた。さらに近づくと男はとうに七十歳を超えている。あるいは最後の夏を涼しい北海道に求めたかも知れず、おそらくは一人身、そう思えたのは、獅子頭の傷を不器用に補修し、色褪せた唐草文様のやぶれた箇所の針仕事があまりにも不器用であったからにほかならない。

 この年、私は北海道のどこの町でもこの男を見ることは無かった。ふと頭を掠めるのは行旅死亡人という警察用語だった。

 高市が終わり私は兄貴にこの事を伝える。すると兄貴は珍しく熊手を作る手を止めてじっと私を見る。厳しい金魚売りの事を思い出していたかも知れない。

 小型の薄いトランクと安物のビニールカバン。それに黒い傘だけを持った男とは、年に二、三度会う事もあれば一度も会わない年もある。男の移動は列車かバスに限られ、短い夏をトラックで夜乗りまでして駆け巡るテキヤたちとは、大きくその生き方までが違う。男とは七、八年前に会ったのが最後だったろうか。

 私はその男の名を聞いたことは無い。男も私の名を聞くことが無かった。その上一年の内幾場所かの高市で会うこともあれば会わない年も多く、北海道で会うことが多かったろうが関東でも長い年月の間に二、三度は会っている。男はいつもみすぼらしく、その点も私を引き付けていたのかもしれない。

 男とはどこかの町で会うと必ず立話しとなる。この時代車の運転のできないテキヤは非常に少なく男の移動は鉄道かバスに限られる。その為もあるのだろう男の持ち物は少ない。彼の少ない持ち物は黒の小型トランクと傘、少量の着替えなどを入れるビニールカバンだけで、トランクにはムキ(くじ)の景品や小さなハサミ、ボール紙やピンセット、大当たりの景品となる時代遅れのカメラなどで、クジは移動の間にボール紙を切り自分で作っている。男はそれっぽっちの物でさえ金を惜しんでいた。その上景品大当たりのカメラは十年以上古いシロモノで、高市の子供達が集まって来るとトランクを開けて先ずはそれを見せる。ところが子供たちはカメラに興味を見せない。今になって気付けば。男はカメラが大当たりだとは決して言わない。子供達もカメラには興味を示さず、私と話す声とは違い、ようやく聞こえる程度にしかも低く、「お兄ちゃんお嬢ちゃん、こうやってクジ開くんだよ」と優しく、複雑に折ったボール紙をピンセットで開いて見せる。

 気付けば子供たちはむしろ男の小さく低い声の方に興味を惹かれ、中には外れの景品の安物、どこで仕入れるのか、十センチ程しか無いプラスチックの定規を七、八枚持っている子も居た。

その上男は、群がる子供の後ろから大人が覗き込もうとすれば、「はい、今日はここで少しお休み」などと言って売台の上に布を掛けた。

 ある時男と出会うと髪や衣服に枯れ葉が付いている。「どうだったの夕べのドヤは」と聞くと「天天オント」と答えただろうか。歯まで見せて嬉しそうにニヤリとする。宿は上等それに無料ということだがどこか無住の寺か神社の下に潜り込んだのだろう。そうすると少なくとも夜露は防げる。季節によっては蚊取り線香か虫よけスプレーがあれば事足りる。私も夏はトラックの窓を開けて蚊取り線香を用いてはいた。

 高市の、特にムキと呼ばれるクジは年々大がかりとなり店も派手になっている。照明はストロボを使いハッタリの人寄せに巨大な縫いぐるみを積み上げ、時々の流行の音楽は朝から夜まで流し続ける。その点男の店は最低の道具立てとなっている。手荷物だけで移動する男は「三寸」という露店を持たない。男は高市のある町に着くとまず酒屋へ行く。当然酒も買うのだろうが、ついでにキス箱を二個借り、高市ではそれを二段にして子供たちの身長に合わせ、そこへ黒布を掛ける。

 ふと気付くと男は照明の「テッカリ電球」も使わず、薄暗くなれば商売を止めてしまう。気付けばそれはソロソロ家族連れの大人たちが増える時刻なのだ。男は居並ぶテキヤ達の中で一流のゴト師であったかもしれない。

                   注 「余市でおこったこんな話『その168 違(い)星(ほし)北斗(ほくと)』」(余市町HP)参照。

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